アルシブラを持つのは誰か
或る種の社会主義を構想したシャルル・フーリエは、さらなる理想郷を、アルシブラをぶらさげた新人類の未来に見出す。
アルシブラとは何か。フーリエによれば、それは尻尾のように垂れ下がる身体の一部であり、様々なものを所有し、把持し、繋がり合い、新しいアイデアやイメージを創造する道具である。さしずめ現代でいうところの情報端末や、SNSのようなサービスそれ自体を象徴する「道具=身体」とも思える。局所的に成立した密な連携や議論を、一気に外部へ放出し、拡散させるかに見える情報端末・技術は、果たして真に、フーリエのいうアルシブラ足り得るのだろうか。
カラハリ砂漠のサンと呼ばれる部族は、成人の儀式に、ガマと呼ばれる精霊とも神ともおぼつかないものを召還する。過酷な行によって疲れきった若者は、地面に、横一列に寝かされ、頭に毛布を被せられる。彼らは、ガマのうなり声を聞き、ガマに額をかまれる。うなり声は、うなり板と呼ばれる板に紐をつけ、年長者が振り回すことで作り出される音だ。額のかみ傷は、年長者が、ナイフでつけたものだ。その上で年長者は、薄目を開けてガマを見よという。
しかし、もし若者が「ガマを見た」と言おうものなら、思い切り殴られる。それは、そうだ。ガマなど見えるはずがないのだから。こうして、聴覚と触覚において肯定され、視覚において肯定を禁じられたガマは、若者一人ひとりに、その存在を感じ取られるのである。
触覚における傷の痛み、聴覚における唸り声は、本来何の関係もない、孤立した刺激の断片だ。視覚においては、見ることを禁じられている。だから、視覚刺激は原理的に不在としてラベルされ、他の感覚に対して孤立しているはずだ。召還されるガマは、まさに、互いに孤立した刺激断片に糊代を延長し、貼り合わせることで開設される。視覚と、聴覚・触覚という感覚モダリティー間の矛盾があるからこそ、断片の隙間に他の感覚や感性が流れ込み、或る者は匂いを感じ、或る者は気配を感じ、ガマを形作っていく。
外部への接続は、断片を貼り合わせガマの存在を現前する。サンはアルシブラをはやしているようだ。
糊代を延長し、貼り合わせるとは、如何なることか。逆説的であるが、各断片が、断片として他と分離され、各々は外部と接するからこそ、外部を通して貼り合わせが可能となる。他との関係確保の不可能性、この、外部の特性によって初めて、各断片は他の断片と貼り合わせられる。徹底した孤立・分離によって、外部は、断片として規定される内側に対し、外部足り得るのである。
翻って、情報端末で世界と繋がる我々は、通常、徹底的な孤立、断絶の経験に及ばない。本来の外部を知らず、外部の異質性を知らない。この段階で経験される局所的な連携・議論・確定が、接続され拡散されていく局所―それが孤立の度合いを深めるなら断片と呼ばれるもの―の外側は、異質な外部ではなく、局所と共に平均化され等質化された空間だ。この空間で、ガマが召還されることは決してない。イメージやアイデアの創造は決してない。我々は、この限りで、いまだアルシブラを持っていない。
中村恭子氏は、かつて世界拒否と唱えた。それは断絶することで、外部を屹立させ、外部へと繋がろうとする宣言だった。その中村氏によれば、カモノハシこそがアルシブラを持ち、アルシブラそれ自体でもあると言う。確かにカモノハシの尾は、体に似合わぬ大きさと扁平さで、様々な用途に役立つ便利な道具だ。水中ではバランスや舵をとり、水面を叩いて音を出し、他個体とコミュニケーションをとる。しかし実は、アルシブラはカモノハシの身体形成以前、カモノハシ概念に所有されている。かかるアルシブラによって、互いに異質な断片を貼り合わせ、自らの身体を形作ったのだ。アヒルのような嘴に、ビーバーのような尾、かわうそのような艶かしい毛皮に、立派過ぎる水かき。これらを貼り合わせてできた身体は、アルシブラの開くイメージであり、存在なのである。
カモノハシ概念に所有されたアルシブラは、カモノハシの身体をアルシブラとし、貼り合わせを継起する。泥の底とハスと、カモノハシ自身を貼り合わせ、開設された世界に仏虫を呼び込む。カモノハシは、自らの身体を、自らが上昇する世界の中に貼り合わせ、カモノハスとなる。カモノハスを鑑賞する者が、それを自らに貼り合わせられるなら、その者もまたアルシブラを持っているに違いない。
郡司ペギオ幸夫(早稲田大学理工学術院 教授)